池袋中国語コラム 北京

中国の都市シリーズ、こちらのコラムでは「北京」について紹介します。誰もがしる中国の首都ですが、そこには長い歴史があります。

北京的历史和地理

大家都听说过北京吧,它以中国的首都闻名,也被称为中国最有名的历史文化名城。北京是什么时候建立起来,它的历史又是怎样的呢?下面我们就一起了解一下北京的历史。

说起北京历史,可以一直追溯到周代的初年,那时候这个地方被封为“燕”“蓟”,现在北京的很多地名还和这两个字有关系呢。从那个时候至今也已经有三千多年的历史了。

北京

北京の歴史と地理

みなさん北京は聞いたことがありますよね、中国の首都として知られており、かつ中国の最も有名な歴史文化の名城と言われています。北京はいつ建設されたのでしょうか、その歴史はどのようなものなのでしょうか?これから私たちは一緒に北京の歴史を理解していきましょう。

北京の歴史を語ると、周代の初年まで遡ることができ、その時この地方は「燕」「薊」と呼ばれており、現在の北京の多くの地名にはまだこの二文字が関係するものが多くあります。その時から現在まですでに三千年ほどの歴史があります。

 

公元前221年,秦始皇统一中国之后,蓟城一直是北方的贸易中心,也是军事重镇。到了唐代,这里改名为幽州,已经发展成为具有一定规模的城市了。但是那个时候,北京还没有成为都城。最早在北京建都,是辽,金时代的事情。到了元代,又在金代中都城的东北郊外,另建了新城,称为大都。大都之后的发展情况怎么样呢?

薊城記念碑

紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一した後、薊城はずっと北方の貿易の中心で、軍事の要衝であった。唐代になって、そこは幽州と名前を変え、一定の規模を備えた都市へと発展していた。しかし、その時、北京はまだ首都ではなかった。北京に都を置いたのは最も早くは遼、金の時代のことだった。元代になると、金代の都城の東北郊外に別の新城を建て、大都と呼んだ。大都以降の発展状況はどのようになっているのでしょうか?

 

元代,建新城大都时,建设的规模很大,而且经过了精心的设计,还有不少外国人的参加。现在西四附近的白塔寺,就是按照尼泊尔人的设计建造的。意大利人马可波罗的游记里,也盛赞了这个东方大都市的繁华。他便是元代初年来到大都的。但是一直到元代还没有“北京”这个名字。明代开始把首都设在南京,紧接着又向北进攻,攻克了元大都,改名叫北平。公元1421年,又把首都迁到了北平,这才改名叫北京。

元大都遺跡

元大都遺跡

元代に新城・大都を建設した時、建設規模はとても大きく、入念な設計がされ、さらに多くの外国人が参加した。現在の西四付近の白塔寺はまさにネパール人の設計によって建てられたものだ。イタリア人のマルコポーロの旅行記の中では、この東方の大都市の繁栄を褒め称えている。彼はちょうど元代の初年に大都に到着していた。ただ元代に至るまでずっと「北京」この二文字はまだない。明代では南京を首都に据えることを開始し、北に向かって侵攻を続け、大都を攻め落とし、北平に名前を変えた。1421年、また首都を北平に遷し、ここでやっと北京へと改名した。

 

在中国,明清两代,北京作为全国的政治和文化的中心,长达五百年之久。1949年新中国建立,把北京定为首都,进行了大规模的建设,北京的发展速度非常快。至于改革开放以后北京的变化,用“天翻地覆”来形容是一点儿也不过分的。现在,北京仍是全国的政治、文化中心,吸引了各界有识之士在此投资,每年也有许许多多来自全国以及世界各地的游客到首都观光。

新中国

中国では明清両時代、北京は全国の政治と文化の中心として、五百年大きくなった。1949年新中国が建てられ、北京を首都に制定し、大規模な建設が進行されたので、北京の発展速度は非常に早くなった。改革開放に至り、その後の北京の変化は「天翻地覆(天地がひっくり返る)」ほどの形容が少しも過分ではないほどだった。現在、北京は依然として全国の政治、文化の中心で、ここでの投資は各界の識者を惹きつけ、毎年、全国及び世界各地の非常に多くの旅行客が首都観光にやって来ます。

 

您也想去北京观光吗?那建议您先把北京的地理弄清楚了。当然如果不知道路时可以询问一下热情的北京人,不过,在北京问路时,如果遇到年纪较大的北京人会用东南西北来表明方向。外国人可能常常摸不着头脑,但是老北京人的方位感可是非常强的。那是因为北京的结构有一个明显的特征,就是正南正北,对称均匀。具体的怎样对称均匀,我们下一次一起通过地图了解一下吧。

北京の地図

あなたも北京観光に行きたいですか?なら先に北京の地理をはっきりさせることをお勧めします。当然、もし知らない道があれば親切な北京人に尋ねればよいですが、北京で道を尋ねる際に、比較的、年配の北京人に出会ったなら東南西北を使って方角を示すでしょう。外国人はいつもさっぱり訳が分からないかもしれないが、北京人の方向感覚は非常に優れている。それは北京の街の作りはとてもはっきりした特徴があるからで、すなわち、南北が正確で、左右の釣り合いがとれているのである。具体的にどのように釣り合いがとれているのかは、次で一緒に地図を見ていきましょう。

 

现在我们就一起来看一下北京市地图。你看,北京城基本上是方方正正的,中间有一条中轴线,自北向南贯穿全城。在这条中轴线上,紫禁城屹立在正中央,从皇城正门天安门,到紫禁城正门午门,再到城内外朝三大殿,内廷三大宫,自南而北都建在中轴线上,真可以说是笔直醒目,像坐标一样。这个紫禁城也就是故宫博物院。

北京中轴线

今、私たちは北京の地図を一緒に見てみましょう。見て下さい、北京の基本はきちんとした正方形で、真ん中には中央線があり、北から南に北京全都市を貫いています。この中央線上には、紫禁城が中央にそびえ立ち、外城の正門・天安門から、(内の)紫禁城の正門午門、さらに内外朝三大殿、内廷三大宫に達し、南から北まで全て中央線上に建っており、とてもはっきりと目立ち、座標と同じようである。この紫禁城はまた故宮博物館である。

 

明清时代的中轴线北至钟鼓楼,南至永定门,在总体布局上把全城分成了互相对称的东西两部分。新中国成立以后,又重点扩建了天安门前东起建国门,西至复兴门,横贯东西的长安街,以它为中心线,又把全城清楚地分成了南北两部分。从地图上看,南北中轴线和东西中心线一直在不断地延伸。近年来北京城的面貌日新月异,以后一定还会继续向外扩展。但不管怎么变化,北京这个城市会继续保持他自己所有的对称均匀,布局明朗的特点。

北京 长安街

明清時代の中央線は北は鐘鼓楼から、南は永定門にまで至り、全体の配置の上で北京全都市をお互い東西両部分に均等に分けた。新中国成立以降、天安門前の東の起点である建国門から、西の復興門まで東西を横に貫く、長安街を重点的に拡大建設し、そこを中心線として、北京全都市を南北両部分にはっきりと分けた。地図上から見てみても、南北中心線と東西中心線はずっと絶え間なく伸びている。近年の北京の様相は日進月歩で、今後、必ずまだ外側に向かって拡大を続けるでしょう。しかし、どのような変化を遂げようとも、北京の左右均等、配置が明確な特徴は保たれ続けていくことでしょう。

 

北京城的另一个特点就是,中轴线上分布着许多重要的古代建筑物和景点,像有名的钟鼓楼,景山公园,故宫,前门什么的,他们都是背靠北,面朝南,这种建筑物坐北朝南的现象,体现了古人“南面而王”的传统思想。从考古发现来看,中国中原地区自古以来的宫殿建筑就是面向正南方的,后来一直把这种习惯延续下去了,所以人们心中也形成了南面而王的思想。怎么样?你对北京的历史和地理略有了一些了解吗?

面向正南方

北京のその他の特徴として、中央線上に分布する多くの重要な古代建造物と観光地、有名な鐘鼓楼、景山公園、故宮、前門など、それらはみな北を背にし、南向きで、これらの建造物が北から南に向かっている現象は、古代人の「南面而王」の伝統思想を体現している。考古学の発見から見ても、中国中原地区の古代からの宮殿建築はまさに真南向きであり、その後、ずっとこの習慣は引き継がれ、そのため人々の心の中にも「南面而王」の思想が形成されていった。どうですか?あなたの北京の歴史と地理はいくらか理解ができましたでしょうか?

 

 

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